母親になって後悔してる

みなさま お久しぶりです。


申し訳ございません。不妊治療をしている方には不快な内容であろうことをお断わりしておきます。この先は、ご自身のご判断の上、お読みください。

 


不調の折、ネット記事からタイトルの書籍の存在を知り、衝撃を受けたのでした。
疲労とイライラから、引き寄せたのでしょうか…?
GW終盤の今、腹落ちするママも少なくないのでは?と思うのは私だけでしょうか?

 


センセーショナルなタイトルに、怒りや不快感を感じる方もおられることでしょう。タイトルだけ読めば、わたしもその一人です。「もし子どもが見たら?」「自分がそう思っていると人に知られたら?」何より、子どもの存在そのものを否定するようで、恐ろしくて口にできません…。

 


でも、この本はそんな単純なことを言っているのではないようです。(ようです、というのはまだ読んでいないからです)
読んでいないのに、今の思いを言語化したくなったのです。

 


あくまでも私の場合、ですが、「後悔」=「産まなければよかった」ではないのです。
でも、もし生まれ変わることができたなら、同じように子どもを産みたいと思うだろうか?簡単にYesとは言えません。

 


このブログを書いている今、子どもは外出しています。
こんな時間があるだけ良いかもしれません。
でも、今この時も、子どものことは頭の片隅にあるのです。

 


夕飯は?
明日の休みの子どもの予定は?(当然子どもの予定に同伴することが必要です)
着替えの準備はできているか?←そんなの自分でさせればいい、その通りです。でも、そうなるためには、わたしが教えなければいけないのです。

 


自分のためだけに生きたい。
自分の事だけを考えたい。

 

なら産まなければいいじゃないか!
その通りです。
子どもがほしくてほしくて、でも授からない人もいる。不妊治療をしている方々もいる。いや、わたしだって、不妊治療経験者です。

 

 

それでも、好きな時に好きなように、思うがまま行動したい、そう思うのです。

 

 

母親という責任が、とてもとても重いのです。
じっくり読んでみたいと思います。

 

 

自分は自分の子どもを、自分が育てられたように育てたいか?

みなさま お久しぶりすぎますね💦
我が家に生けた桜の花は早々に満開となりました🌸
どんだけ部屋が温かいのか💦


ブログの投稿が途切れた頃から、作家のジョンキムさんによる「成功哲学」をクラブハウスで聴いていました。現在SeasonⅡが始まり、今朝は子育てに関する話題。


そこから私の心が動き、想い出したことを、お伝えしたいと思います。

 

 

人は、自分が育てられたように、自分の子どもを育てる。

 


私の場合、親からの言葉の暴力(と今なら見なされる)や、今なら問題となるような叩かれ方もしましたが、一方で「それはそれは大切に育てられた記憶」の方が厄介でした。

 

我が家は、季節の行事はきっちりこなし、誕生日やクリスマスは手作りで楽しませてくれる。父は昼食を摂る時間もなく働き、クタクタになって帰宅するサラリーマンでしたが、休みの日には、キャンプや遊園地に連れていってくれました。長女の私は、本当は欲しかった「物」を我慢した記憶はありません。

 

でも今振り返ると、この楽しい、幸せなはずの想い出が、無意識下で、子育てを始めたばかりの私を苦しめたのでした。

 

我が家とは正反対で、夫の家族はさほど行事を重要視せず、初孫のお宮参りに、「その日ディズニーランドに行くからお宮参りは行けない~💦」と言われ、目が点になりました👀

 

でもこの時私は「楽✨」だったのです。ここで気づけば良かった💦単純に、「姑に育児の口出しされない楽な嫁」と理解していました。


方や実母は「お宮参りは?」「お食い初めは?」「お雛様🎎買うのに〇〇万円振り込んだから選んであげて!」と、やんややんやとせっつかれる(と私は感じていた)。理性では有難いことだと理解できます。しかし、育児で疲労困憊、当時、家探しまでしていた私の心の声は「今!?」「しんどい」と悲鳴😣

 

 

一方で「きちんと行事をしてあげなければ子どもが惨めだ」という無意識の思い込みのにより、自分を追い込み続けてしまっていました。

 

 

自分は自分の子どもを、自分が育てられたように育てたいか?

 

 

あの時、この言葉の本当の意味をじっくり考える余裕があったなら、本質を見失うことはなかったかもしれない。

 

 

わたしは自分の子どもに「自分は大切な存在である」と感じて育ってほしい。ただそれだけでした。生後100日でお宮参りに行かなくても、初節句にお雛さまが間に合わなくても、豪華な誕生日でなくても、大切な存在だと思えないことに比べたら、どーでもいいこと。

 


なけなしのエネルギーを使うところ、間違ってたね😢

 


過去は戻ってこない。
だから今から始めよう✨


ステキな一日をお過ごし下さい♡

 

小学校の上履き問題その3

みなさまおはようございます☀

快晴の今日、空気が澄んでいます✨

 


先日派遣先の小学校で避難訓練に参加しました。その時再び感じた上履き問題。今日はそのお話を書きたいと思います。

 

 

訓練は、授業中、地震後の火災発生想定で、校庭ではなく、付近の公園まで避難しました。当然上履きのままの避難

 

 

アスファルトの道路を、列になって1キロ程度歩いたでしょうか。
その間、転びこそしないけれど、側溝の蓋や歩道のブロックの小さな段差に躓きそうになる子数名。うーん・・・・・🤔

わたしはもともとバレーシューズタイプの上履きに反対派なので、躓く原因が「靴」の様に感じてしまっているのかもしれません。

 

けれど、安全の観点からも、地震発生後、余震も予測される、瓦礫だってあるかもしれない中の避難。バレーシューズ、本当に安全でしょうか?🤔


わたしの中ではやはりNO!!でした。

 

 

余談ですが、安全な避難という観点から、ハンカチポシェットについても考えさせられました。

腰にクリップで装着するタイプではなく、斜め掛けでバックの様にかけている女児が少なくありません。洋服にポケットがついていない、低学年の女児に多いです。確かに可愛く、わが子も欲しがっていました。しかし避難中、するりと肩から足元に滑り落ちた!!のです💦。危うくその子は引っかかるところでした😨

 

 

訓練経験は親として大変有難く、また、わたし自身、災害時の対応を考える貴重な機会となりました。
安全に避難するための重要なツールとして、靴👟👟も見直す機会になってほしいと切に感じます。

 

 

わたしが子どもに履かせている上履きはこちらです👇各ご家庭でのベストを探してみてはいかがでしょうか?

 

 

今日も最後までお読みいただきありがとうございました!
みなさまステキな一日を🥰

シルバー人材センター活用のススメ♬

 みなさまこんにちは☀


11月半ばを過ぎ、会社では年末調整の書類を求められ、いよいよ年末の気配を感じております。

今日は、シルバー人材センターの方へ、窓掃除をお願いしたお話を書きたいと思います。(以下、シルバー人材センターへ入会(仕事をする登録)されている方=会員様、と記載します)

 

 

シルバー人材センターとは

高齢者が働くことを通じて生きがいを得るとともに、地域社会の活性化に貢献する組織です。(公益社団法人 全国シルバー人材センター事業協会 HPより)

 

私は娘が乳幼児のころ、お掃除やお料理をお願いしていました。特殊技能というよりはライセンスがなくてもできるようなお仕事が主なようです。

 

メリット

 

1.安価 地域や依頼業務によって価格は違うと思われます。私がお願いしたお掃除やお料理は1300円/時程度でした。別途交通費がかかるかもしれません。それでもいわゆる家事代行サービスと比較したら、安価だと思いませんか?💰


2.強制力となる 家事をお願いしている間、私も何らかの家事をこなします。例えば、わたしが片付けを行い、会員様に掃除してもらう、等。

 

3.生産性が上がる こどもが好きな方は、掃除しながら、子どもの相手をして下さるので、その隙に自分の作業に集中できる!会員様の生産性はやや下がりますが、子どもは喜ぶし、自分の生産性は上がるのです。

 

4.苦手なことをお願いできる わたしの場合、窓掃除好きではありません・・・。背が低くてやりにくいのです。会員様は安全のため、台や椅子に上っての作業は禁止されていますが、私より随分背が高いの方だったので、窓掃除に適任💖



5.社会貢献ができる 自分が苦手な、やりたくないことをお願いしているのに、会員様の雇用を促すという、社会貢献につながっている✨一石二鳥✨「家でぼーっとしているより、こうして若い方とお話できて、お仕事できる機会があると、張り合いになる」って、いつも言って下さいます。



デメリット

 

1.プロではありません。 あくまで素人の完成度です。それでもわずかな手直し程度で済むなら楽です!


2.相性の不一致 人間同士ですので、合う合わないがあります。合わなければ1回で止めることも可能です。

 

3.登録までの手続きがやや面倒  お近くの事務所を探す⇒電話して依頼する⇒対応可能登録者を探してくれる⇒事業協会の方も含め、三者で顔合わせし、依頼内容擦り合わせる⇒依頼業務実施

7年前はこんな感じの流れだったと思います。コロナ禍で手続きが変わっているかもしれません。顔見知りになると、メールでやり取りして、次回予定日を決めていました。


いかがでしたか?
年末のお掃除やおせちを一緒に作る、お庭の手入れをお願いするなど、重い腰を上げるチャンスかもしれません♬



まずはお近くの事務所に電話して、マッチする会員様がおられるかどうか、聞いてみてはいかがでしょうか?プロへの依頼のように、電話1本で予約まで、とはいきませんが、一度登録して、お気に入りの方に出会えたら、あとは楽チンですよ。

 

 

子どもが大きくなり、コロナもあり、ここ2年ほど依頼していませんでしたが、「苦手なことは手放す!」と思い、単発でお願いしました。気になっていた窓がきれいになり、再会もできて嬉しかったです♬

www.zsjc.or.jp


今日も最後までお読みいただきありがとうございました。
ステキな午後を✋

向上心のトリガー😲

みなさまこんばんは☆
人生こじらせの根源は、自己肯定感の低さに端を発している、と、ようやく認知した40代💀

 

今日は、わたしの「向上心」にまつわる衝撃の事実について書いてみます✏。


一般的に「向上心」は良いものとして評価されることが多いのではないでしょうか。
好奇心旺盛で、昭和の「努力の人」のわたしは、常に今より良い状態となることへ意識を向けていました。もちろんそのことは良いこととして認知し、評価もされ、持ち続けたい自分の資質でした。

 

 

が、ある時気づいてしまったのです💦

 

 

「向上心」として外部から見える行動(学び続ける、スキルアップを目指す、トレーニングを続ける等)は同じでも、そのトリガーは自己否定でしたΣ( ̄□ ̄|||)

 


「このままではいけない」「〇〇が足りていない」という不足感、その時点での自分をディスることに端を発していた😨



「もっと良くなりたい」という言葉に隠れた、無意識の自己否定。
決して「今の私もステキだけど、〇〇するともっと良くなるね♡」とは思っていなかった・・・Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 


パーフェクトな円形目指して、欠けている部分を補い続ける感覚。そもそも、パーフェクトな円形を目指している時点でオカシイ💦人がみんな円形になったら、皆同じ人になるの?!?!(@_@)?

 



今の自分を受けとめていないことが、過去を振り返り、未来を急ぐ、マインドレスな、今を味わいつくせない状態を運んでくる。

 



あなたの向上心のトリガーは何ですか?

 


明日はハロウィン🎃
ステキな時間をお過ごしください✨✨
今日もお読みいただきありがとうございました。

自分の幸せを後回しにしないよう意識するようになって感じたコト

みなさまこんばんは☆
めずらしく夜の投稿です。


今日は

自分の幸せを後回しにしないよう意識するようになって、感じたコトについて

書いてみたいと思います。

 

 

娘が祖母(私の実母)へ「〇〇に行ったんだよ!」と話すと、決まって
「連れて行ってもらったんだから、ママにお礼言った?」
って言うのです。

以前は、

この子は子どもだからなのか、感謝の気持ちが薄いのか、「連れて行ってもらった」なんて概念ない(--〆)、だから分かりやすく「連れて行ってくれてありがとう♡」なんて言われないよ!


今思えば、どこかやさぐれた気持ちで、自分の幸せではなく、母親としての責任で行動している部分が強かったんだと思います。


最近この言葉に、違和感を感じるようになったのです😲

 


わたしは子どもとその辺の公園で遊んでも楽しいと思えません(笑)

今までこんな風に言葉にできませんでした。なぜなら「子どもと楽しそうに公園で遊ぶママが社会的に理想的なママ」と思っているのに、自分はそこから外れているから。

 

 

自分の幸せを後回しにしないことを意識するうち、自分の中に

 

無意識に抑圧した感情

 

があるコトに気づきました。


「私はこんなに(我慢して)尽くしてあげているのに!」という感情が、「(だから)あなたも感謝しなさいよ!」という他者をコントロールする気持ちにつながる構図を知りました😢



自分の幸せを後回しにしないことは、周りを幸せにすることにもつながる、と学ぶうち、実母が放つ「連れて行ってもらったんだから~」のフレーズに違和感を感じるようになったのです😲

 

娘は「ママも」一緒に楽しかった、って思ってる。
そもそも、5-6歳の子どもが、「自分のために」「ママは行きたくもないのに」「我慢して」連れて行ってくれた、なんて思うのかな?

 

 

それはつまり「ママ私のために犠牲になってくれてありがとう!」
って思えってこと!?

 


言葉にしてみるとオソロシイけど、そう思いなさいよ!と感じていたことになる・・・Σ( ̄□ ̄|||)

 



「連れて行ってもらったんだから~」
このフレーズ、リアルに自分の幼少期を思い出すのです。
「お父さんは疲れているのに頑張って私たちを楽しませてくれている」

「だから旅行から帰ったら、すぐにお父さんが休めるような環境を作らなければならない」

 

 

張り詰めた空気が重かった(笑)
両親の犠牲の元に、私たちの楽しみがある、みたいで。

 

 

現実的に、子どもは親のサポートが不可欠。

でも、「親の責任」としてではなく、できるだけ、自分も楽しめるような形でサポートしたい。少なくとも、自分を犠牲にして、自分の笑顔が消えるような形で、子どもに尽くすのはやめよう。

 



私は私の幸せを後回しにしない✨娘は娘の幸せを追求できるようになるためにも。

nehan24.com
👆今わたしが取り組んでいるワークです。良かったらのぞいてみてください。

 

 


最後までお読みいただきありがとうございます🌠

 

 

 

 

 

 

 

Identitas dari hal-hal yang tidak bisa aku lepaskan☺

Selamat siang! 
Apakah Anda tahu kata DANSYARI?

Tiga bulan yang lalu, saya mendengar dari seorang kenalan yang tinggal di Yogyakarta bahwa 'Dansyari' juga populer di Indonesia.Betulkah??🙄

Jadi saya menerjemahkan artikel yang saya tulis tentang merapikan ke dalam bahasa Indonesia. Saya masih belajar, jadi saya pikir sulit untuk membaca, tapi tolong maafkan saya.🤣

Tentang apa yang sulit saya utarakan selama bertahun-tahun.

Saya tidak punya waktu untuk menghadapi keinginan saya untuk bekerja dan mengasuh anak.
Saya menghabiskan waktu dan energi, dulu saya ingin memberi anak saya sesuatu yang dipilih dengan cermat. Saya sibuk dan tidak punya waktu untuk menghadapi hati saya, jadi saya tidak pernah menghadapi ''barang-barang''. Tetapi saya ingat bahwa saya frustrasi dengan meningkatnya barang-barang untuk anak....😩

Berbicara tentang merapikan ,Marie Kondo terkenal ,ya?

Saya tidak mampu untuk mempraktikkannya, tetapi saya sudah pernah membaca ''The Life -Changing Magic of Tidying Up 1・2'' 

Saya mencoba merapikan pakaian dengan metode KONMARI.
Saya tidak punya banyak pakaian dan saya tidak terobsesi dengan pakaian, jadi itu akan cukup cepat selesai.

Saya terpikir ketika saya memulai pembersihan tahap kedua.....🤣
Banyak materi seminar keperawatandan, penitipan anak ,dan pengembangan diri yang saya ikuti.....
Dan buku-buku yang tidak akan saya baca berasal daro rak buku almarhum ayah saya.

Metode Konmari tidak mengatakan bahwa memiliki sedikit barang itu baik, juga tidak mengatakan bahwa dia harus melepaskan banyak barang.

Kamu bertujuan untuk menghabiskan waktu dikililingi oleh ''hanya barang-barang yang tertarik dengan sendiri''

 


Apakah saya tertarik tentang buku hobi almarhum ayahku? →Tidak
Apakah saya tertarik tentang materi seminar kedokteran lama? →Tidak
Apakah saya tertarik pada buku yang dipakai penutup yang saya beli sudah lama?→Saya tidak mengenali keberadaan di tempat pertama ... (malu)


Yah, saya pikir ini adalah proses merapikan yang umum.Namun, saya menyadari bahwa hal-hal yang saya ragu-ragu untuk lepaskan memiliki kesamaan.

Ini adalah "kenangan" dan "pikiran orang tua".
"Ayahku ingin saya membaca ini juga."
Saya kira... "Ayah membelinya dengan uang hasil kerja keras."
"Saya putus asa mempelajari keperawatan pada waktu itu. Itu sangat keras."
“Ketika anak saya berusia 2 tahun dan sulit untuk membesarkan anak saya, saya sulit tentang perawatan anak, lalu menghadiri seminar."..... dll.

Benda di depanku pada dasarnya adalah "buku", tetapi bagiku itu adalah sesuatu yang membangkitkan "kenangan" dan "pikiran orang tua" yang tidak terlihat oleh mata manusia.

Ketika saya memikirkannya, saya dapat dengan mudah membuang pakaian yang beli sendiri .Namun, saya tidak bisa melepaskan hal-hal yang diberikan orang tua saya, karena saya pikir mungkin mereka ingin disimpan itu oleh saya , meskipun saya jelas tidak tertarik.

Saya berterima kasih kepada orang tua saya atas kerja keras mereka dan itu baik untuk mengurus barang-barang dengan sayang, tetapi saya dapat memilih kenyamanan saya.Hanya ketika saya menyadari bahwa saya terikat oleh pikiran orang tua saya dan saya melepaskan pikiran itu, saya menjadi hanya dapat memilih apa yang benar-benar menarik hati saya.
Tatap muka barang-barang saya = Tatap muka dengan hati saya  
Itu tertulis dalam buku ini, saya merasa itu benar juga.

Terima kasih sudah menyadarkan hati saya.

 

Buku ini 👇telah diterjemahkan ke dalam bahasa Inggris dan bahasa Indonesia. Saya merekomendasikannya☺

Klik di sini untuk versi Jepang dari artikel ini👇

 

amtrtan.hatenablog.com