自分の幸せを後回しにしないよう意識するようになって感じたコト
みなさまこんばんは☆
めずらしく夜の投稿です。
今日は
自分の幸せを後回しにしないよう意識するようになって、感じたコトについて
書いてみたいと思います。
娘が祖母(私の実母)へ「〇〇に行ったんだよ!」と話すと、決まって
「連れて行ってもらったんだから、ママにお礼言った?」
って言うのです。
以前は、
この子は子どもだからなのか、感謝の気持ちが薄いのか、「連れて行ってもらった」なんて概念ない(--〆)、だから分かりやすく「連れて行ってくれてありがとう♡」なんて言われないよ!
今思えば、どこかやさぐれた気持ちで、自分の幸せではなく、母親としての責任で行動している部分が強かったんだと思います。
最近この言葉に、違和感を感じるようになったのです😲
わたしは子どもとその辺の公園で遊んでも楽しいと思えません(笑)
今までこんな風に言葉にできませんでした。なぜなら「子どもと楽しそうに公園で遊ぶママが社会的に理想的なママ」と思っているのに、自分はそこから外れているから。
自分の幸せを後回しにしないことを意識するうち、自分の中に
無意識に抑圧した感情
があるコトに気づきました。
「私はこんなに(我慢して)尽くしてあげているのに!」という感情が、「(だから)あなたも感謝しなさいよ!」という他者をコントロールする気持ちにつながる構図を知りました😢
自分の幸せを後回しにしないことは、周りを幸せにすることにもつながる、と学ぶうち、実母が放つ「連れて行ってもらったんだから~」のフレーズに違和感を感じるようになったのです😲
娘は「ママも」一緒に楽しかった、って思ってる。
そもそも、5-6歳の子どもが、「自分のために」「ママは行きたくもないのに」「我慢して」連れて行ってくれた、なんて思うのかな?
それはつまり「ママ私のために犠牲になってくれてありがとう!」
って思えってこと!?
言葉にしてみるとオソロシイけど、そう思いなさいよ!と感じていたことになる・・・Σ( ̄□ ̄|||)
「連れて行ってもらったんだから~」
このフレーズ、リアルに自分の幼少期を思い出すのです。
「お父さんは疲れているのに頑張って私たちを楽しませてくれている」
「だから旅行から帰ったら、すぐにお父さんが休めるような環境を作らなければならない」
張り詰めた空気が重かった(笑)
両親の犠牲の元に、私たちの楽しみがある、みたいで。
現実的に、子どもは親のサポートが不可欠。
でも、「親の責任」としてではなく、できるだけ、自分も楽しめるような形でサポートしたい。少なくとも、自分を犠牲にして、自分の笑顔が消えるような形で、子どもに尽くすのはやめよう。
私は私の幸せを後回しにしない✨娘は娘の幸せを追求できるようになるためにも。
nehan24.com
👆今わたしが取り組んでいるワークです。良かったらのぞいてみてください。
最後までお読みいただきありがとうございます🌠