教場

キムタクが警察学校の教官役を演じた教場。開始早々、ブルーの警察のユニフォームが、軍服に見えたのは私だけだろうか?

 

コードブルーやドクターX等、医療ドラマも、「ないない!」と突っ込みを入れたくなる場面があるように、「教場」に突っ込みを入れた警察官もたくさんいたのだろう。

 

とは言え、真相を知る由もない私は、ドラマにどっぷりはまった。

 

「教場」は警察官になる資格のないものをふるいにかける場として描かれていた。私は、かつて自分が身を置いた「看護学校」を思い出していた。その時には分からなかったが、現場で働き始め、やはり看護師にも向き不向き、適性というものがあると感じる。でも、看護学校(大学)の教官は、なんとしても看護師になれるよう、後押ししている気がする。「ふるいにかける」なんて「悪」でしかないと思っているように見える。

 

本当にそうだろうか?即戦力にならない状況で現場に出て、ようやく戦力になるかならないか、で辞めていかれたら、一体誰の為になるんだろうか?就職の「場」の問題ではなく、そもそも「看護師」という職業に適性のない、学生の時点で分かっていたよね?と言いたくなる人材が少なくない。それをふるうのは、「善」だと思う看護師は私だけだろうか???

 

では、私自身、看護師に適性があるのか?という声が聞こえてきそうだけれど...。

2019年

 今年も今日で終わり。去年の今頃は体調不良に悩まされ、どん詰まり状況だった。あれから1年。退職し、カウンセリングを受け、家事と育児に向き合いながら、自分を振り返り続ける毎日。

 

 今は自分の「承認欲」にぶつかり、今更?アドラーの「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読んだ。タイトルから想像した内容と違ってはいたけれど、Amazonで口コミ2000件越えするだけあり、何度も何度も心に刺さる内容だった。

 

「あらゆる対人関係の土台は尊敬によって築かれる」

 

 この文章から、自分が絶好調だった時期を思い出した。絶好調だったのは、他者に対し、感謝の念が自然に湧いていたことによる、と思っていた。だから、絶不調の時、何故感謝の念が湧かないのか、自分を責め、自問自答を繰り返していた。

 結局、何故感謝の気持ちが「湧いた」のか、今でも分からない。でも、あの絶好調さは、感謝の気持ちではなく、自分が周りの人々に対し、無意識に、尊敬の念を抱いていたからではないか、と感じた。当時初めての部署に配属され、自分より若い看護師であっても、自分の知らない、憧れの分野で、機敏に働くその姿は、尊敬以外の何物でもなかったから。

 

 とはいえ、私の場合は偶然の産物・・・。アドラーの言うように「無条件に尊敬する」ことを、いつ、どこででもできるのか?

 この2冊は、今後も何度も読み返しながら、実践していくことになるだろう。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 
幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 

医者よ、信念はいらない、まず命を救え!

 12月4日、長きにわたり、アフガニスタン人道支援活動をされてきた中村哲医師が、何者かに銃撃され亡くなった。

 

 どんな方だったのか、ネットで検索するうち、中村医師の著書「医者よ、信念はいらない、まず命を救え!」という言葉が胸に刺さった。

 

 医療界の体質がどうとか、旧態依然としているだとか、ふてくされて医療から離れている自分に、「どうこう言ってる間に、持てるライセンスを使え!!」と喝を入れられた気分だった。

 

 そして、私には想像もできないような環境で、いつ、今回のようなことが起きてもおかしくない場所へ、中村医師を送り出し、日々無事を祈っていたであろうご家族を思うと、本当に心が痛い。でも、報道された葬儀でのご長男の言葉は、「父はいつも家族を想っていてくれた」と。

 

 私は看護師のライセンスと経験を持ちながら、一体何をしているのだろうか?

 

 中村医師のご冥福と、ご家族の悲しみが少しずつでも癒えることを心からお祈り致します。

 

看護師さん

 看護師の養成課程の多くは3年または4年。看護師だけでなく、助産師・保健師まで取得する人もいる。働く場所により、助産業務手当ではなく、助産師という資格に対する手当が出ることもあったが、多くは何年過程の看護学校(大学)を卒業したか、が基本給を決める要素だった。

 

 認定看護師や専門看護師を取得する人が増えていて、専門(認定)看護師として、他のスタッフの教育、院内での啓蒙活動、ライセンスを維持するための学会参加など、組織による違いはあるようだが、一般的に、自分の時間を割かなければいけないことも増える。

 

 一方、それが地位やお給料に反映されるのか?と言えば、一般的にそれはない。責任は増えたのに、一番分かりやすい権利は増えないのか・・・。おかしな話だ。

 

 どうして自分の時間やお金を割いて学んだ人が、責任だけ増えて権利は増えないのか、さっぱり分からない。最近定年退職した師長に話してみると・・・。

 

 医者は腐っても鯛。たとえ無給同様の昨日今日医者になった研修医でも、医者は医者。それだけの勉強をしてきて、一匹狼として、それだけの責任を負う。方や看護師は、「看護師さん」という集団でしか見られていないことが多い。それだけ腰掛けや、学びが足りない人が多い、と。

 

 「看護師の○○さん」と呼ばれるためには、一人一人がプロとしての学び、自覚が必要。「看護師の○○さん」ではなく、「(集団としての)看護師さん」と呼ばれることにに不満を感じない限り、専門看護師・認定看護師の地位は上がらないだろう、と。

 

 そもそも、いつまで経っても医師におんぶにだっこの看護師が多い。医師の指示を受けて看護師が実施する医療行為でも、間違った指示を実施したら、責任を問われることを知っているのだろうか?いや、たとえ責任を問われなかったとしても、それで患者に不利益を、最悪死に至らしめる可能性があることを自覚しているのだろうか?

 

 もしそれがあるなら、自分の持つライセンスの価値を、地位を、もっと高めたいと感じるのではないだろうか?

 

 責任は問われず、そこそこのお給料がもらえればいい、と思っているから、腰掛けが発生するのではないか。

 

 しかし、残念ながら、人手不足である以上、この傾向が改善される日は遠いような気がする。

 

SIMPLE RULES

最近

SIMPLE RULES 「仕事が速い人」はここまでシンプルに考える (単行本)
ドナルド サル, キャスリーン アイゼンハート他

を購読した。シンプルなルールほど上手く行く、という主張が多くの実例と合わせて多数紹介されていた。
また、そのルールの作り方、Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)により、ルール変更が必要な事も書かれていた。

 

 看護の世界における、SPD(supply供給、processing加工 distribution分配)システムを思い出した。あのシステムにより、日々物品の在庫管理に割く労力・時間が削減され、何なら家庭にも欲しい(冷蔵庫から卵がなくなったことを知らせたら次が来るなんて最高!)と思ったくらいだ。

 

 SPDは、物品を開封した際、セットになっているカードを提出すると、新しい物品が自動供給される、という、非常にシンプルなシステム。でも、様々な部署で、様々な運用が繰り広げられていたのが現実だった。各種物品のカードをまとめて管理し、物品担当が機を見計らってカードを提出(次の物品が請求される)する部署、物品によって、中身の残が少なくなったらカードを提出する部署、同じ部署でも物品によって管理方法を変えている部署等々。

 

 せっかくのシンプルルールを複雑化させるにはそれなりの理由があるのだろうが、個人的には、そもそもシンプルルールを良いと思っていないし、それに沿う気もなく、看護師のライセンスがなくともできる物品管理に、時間とエネルギーを注いでいることを問題視していないように映っていた。

 

 今回、「SIMPLE RULES 「仕事が速い人」はここまでシンプルに考える」を読んで、そもそもどうしたら、「シンプルなルールが良い」と感じるようになるのか?という疑問が残った。この著書は、そこで初めて役に立つ気がした・・・。

マルチタスク

  知人の50代男性、現役モーレツサラリーマンに「女性のように、マルチタスクにはなれない。仕事の途中で話しかけられると、何やってたんだか分からなくなって・・・」と言われ、考えた。

 

 仕事を辞めて感じた事。仕事をしている時よりは、家事と育児に達成感を得られるようになり、それが生活の満足感にもつながっている。

 

 育児に悩んだ時(現在進行形ではあるが)、なんでこんなに育児にイライラするのか?私は何故こんなに育児に向かないのか?と考えた。

 

 子どもは親の都合なんて考えず、自身の生理的欲求の訴えのみならず、話しかけるわ、歓迎できないことをするわで、親は始終、自分のしていることの手を止めなければいけないのだ。それこそ、「一体私、何してたんだっけ???」がずーっと続いている感じ。それがフラストレーションにつながる。

 

 手を止めて困るような料理を作らなければいい、そこまで掃除しなくていい、洗濯は乾けばいい、とか、7割できれば御の字!と考える、など、いろんな記事を読んだけれど、そんなに簡単に性格は変わらないし、邪魔されずに仕事してきた私にとって、そのフラストレーションは想像を絶した。

 

 生理学的に女性がマルチタスクに向いているとしても、個人差はあるだろう。でも、出来る事なら、7割で御の字!と心から感じたい。いや、それは結果的に、少ないストレスで物事をタイムリーに進行させ、当初の7割以上の結果を導くことに繋がる気がする。そして何より、そんな風に生きられる女性の強さはしなやかで美しいと、私はあこがれる。

 

 なので私はこのブログを、10割の完成度でなくても書き上げたことにしよう(^-^;

女性が教育を受けること

 世界には未だに「女性は教育を受ける必要がない」と考えられている国々がある。

職業柄か、健康問題に関して、母親の知識が、子どもを病気から遠ざけることは実感していた。けれど先日こんなことがあった。

 

 ピアノを習っている娘が、絵本の中の楽譜に興味を示した。でも、娘の実力ではまだ弾けない。そこで多少なりとも楽譜が読める私は、その曲を、娘が弾けるように変調しして書き直した。娘は喜んで弾いていた。

 

 私にとってピアノは、習っていた期間の割りに、なんの実にもならず、高い月謝を払い続けた両親に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。とはいえ、よく考えたら、中学時代の合唱コンクールでは常に伴奏していたのだけれど。自己評価では、「習った期間・払った月謝代>実力」だった。

 

 でも、娘が、私が書いた楽譜を嬉しそうに弾いた時、私の中で「ピアノを習っていて良かった」という気持ちが最大になった。そして両親に感謝した。

 

 そしてやや誇大解釈かもしれないけれど、女性が教育を受ける、とはこういう事なのではないか、と考えた。女性が社会で働くかどうか、だけではなく、次世代を育てる上で、やはり教育は必要不可欠なのだと感じた出来事だった。