主体的であることのメリット

 今更何を?的な記事になることを承知の上で、でも私は最近気づいた(体感した)んだもの、という気持ちでこの記事を書いている。

 

 かつて助産師をしていたころ、「妊婦さんが主体的にお産に取り組めるように」と、当たり前に教えられてきて、助産師として、妊娠期からそれを支援していた。

 

 しかしふと、「なぜ主体的でないといけないのか?」という疑問がわき、いろんな人に聞いて回った気がする。でも、「当たり前じゃん」みたいな顔をされ、結局しっくりくる答えは得られなかった気がする。

 

 それが、夫婦関係、育児、仕事で悩んだ今頃、ピンとくる結果となった。

 

 そもそも私は何でも、最終決定は自身で下し、それに対し責任を負うのは当然だと思って生きてきた。もちろん自分以外の人の意見も聞くけれど、最後は自分。敢えて言うまでもないスタンスだ、と。決断に苦慮することはあったけれど、自分で決めることを「偉い」だとか思ったことはない。自分の事なのだから。失敗しても痛い目に会うのは自分。だから、悩みぬいた後は、失敗が怖い、という気持ちも消えていた。

 

 子どもが生まれ、子どもに関する決断をするとき、本当に悩んだ。不利益を被るのは子どもだから。子ども自身が「こうしたい」と言ってくれたら楽なのに、と何度も何度も感じた。もちろん、言ってくれるわけもないのだけれど。

 

 家事と育児と仕事に追われる生活の中で、夫婦の気持ちがすれ違っていき、夫を恨む気持ち、自分が惨めだと思う気持ち、職場に対する反感等々、マイナスの感情ばかりにとらわれていき、本当に苦しい時間が続いた。

 

 退職し、まずは時間的、身体的に自分を楽にし、カウンセリングや、内省を続け、じっくり子どもと向き合ううちに、自分で自分のケアをするうちに、マイナスの感情が消えていき、精神的に楽になった。

 

 そんな中で、ふと、決定的に夫との関係悪化につながった出来事さえ、「自分が決めた(少なくとも夫の望みを許可した)」のであり、それによって、関係悪化につながったとしても、少なくとも責任の一端は私にある、と思えるようになった。

 

 自分に責任がある、のに、夫を恨むより、何倍も気持ちが楽になった事に驚いた。人を恨むとは、近しい人なら尚更、不毛な、計り知れないエネルギーを消耗しているのだと感じる。

 

 関係悪化につながったとは言え、夫の望みを許可した自分を棚に上げていた自分=主体的であったはずの判断を、責任転嫁していたのだ。

 

 誤った選択だったけれど、主体的に選択したこと。では、この失敗を受けて、どうしたら良いのか、を考えようと思えるようになった。何より、精神的・身体的に蝕まれる、恨みの念が消えたことが大きい。

 

 「主体的に生きる」「責任を負う」という事は、負担のかかる事、とばかり思っていたけれど、自分の人生を、自分でコントロールすることができる、唯一の方法でもあるのだと実感した。